すっかり安定してきたように思う。一人がいるのといないとでは大違いだ。
しかし大切にしなくてはいけないことと目先の楽をちゃんと見積もれていないのだと反省することの多さ。わたしにも相手にもよくないとわかりつつもやめられない。
変わる気持ちは必要だ。斜に構えて何にもしないんじゃしょうがない。鋭くとがった若人じゃなくて、しっかりと生きていける人間にならなくてはいけない。

そろそろ4年生たちが卒論を仕上げるころになってきた。今年のゼミの4年生たちはあんまり活気がなくて、人ととおりチェックしたいなと思いつつも、失礼ながらあまり期待してない。そんなこと思ってるうちに12月になってみんなわらわらと就活を始めた。やらなきゃまずい、まずいと思いつつも目先のことに気を取られておろそかどころか始めてもいない。スーツを買い靴を買い、コートを買って一丁前に就活生の格好をするのに現実はぎりぎりのレポートをやるなり亀の歩みで本を眺めるなどしていて本当にずれたことばかりしている。一生続くようだった学生生活は本当に終わるのか??もうすぐ13年卒の卒論が締切だけどそうこうしてる間に私たちの卒論もはじまる。私は何で書くんだろう、私は一年かけて何を考えるんだろう、私はいい卒論を書けるのか、私は、私は。興味があるもの、思想、知りたいこと、あと三か月で決められるのか。。。私本当にこれで学生終わりにしていいんだろうか。でも、続ける価値は?
心の哲学なゼミのほかに今年ウィトゲンやってるゼミにも出入りをはじめちゃって収集つかない感がやばい。他学科の言語学の授業もかなり楽しい。もしかしたら、ブログなんて書いてる場合じゃないのかもしれない。でもこのところツイッターに入り浸っていて、一方で140文字で表せられるようなことしか思考できなくなったらどうしようって恐ろしさがすごい。これから死ぬほど文字を書かなきゃいけなくなるんだしリハビリテーション的な意味でまたぼろぼろ思考をこぼしていきたい気持ち。私こんなに支離滅裂だったっけって思ったけど毎回思っている気がするから多分いつも支離滅裂だ。気づいた途端にバックスペース押し続けて全部無に帰したい気持ちになるけど、書き表さないことには何も始まらないからこのまま続ける。
身の振りようを決めなきゃいけないこの期に及んで誰かの気持ちを待っている。きっと誰かがいれば勉強も友達もどうでもよくなって、麻薬的な安心感とかずれた愛情で間違ったままでも過ごしていけるんだよな。いつもいつもぐるぐる考えていても、強い感情の前ではやはり思考は無力なのかもしれない。軽い気持ちで明るい未来を見たい。
そういえば今度が生まれて初めての選挙で、4つもの選択をしなくてはいけないのに全くの不勉強でどうしたらよいものか困っている。この選択で投票箱の前に立っていいの?もちろん私一人の意見なんて小さくて取るに足らないけど、でも正しいの?とりあえず、残された時間はすこし考えることに使いたい。

一人で泣くのは嫌だ。大丈夫って言ってもらえないのは嫌だ。この先誰にも欲してもらえなかったら嫌だ。人のぬくもりに安心したい。大丈夫だって言って欲しい。必要とされたい。大切に思われたい。
もうずっとこんな調子だ。いい加減立ち行かなくなってくる。動け動けって。動けば行くっそんなわけないじゃん。おんなじ事を繰り返すのはごめんだ。全然進めないまま、カウントダウンが進む。てんでつまらないやつ。

思い出す

いつだったか、私の関心の根っこの部分は「好き」だとか結局「愛」についてだって書いた。その時点では、というか、関心の根っこについて考え始めたときからそう思ってたんだけど、それって間違いだった。
あるとき読んでたウィトゲンシュタイン入門の始めの方に書いてあった「なぜこの子が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」って疑問について、私はあまりピンとこなかったんだけど(その疑問の意味は理解している)、友人は「自分も小学生の時まったく同じことを考えていた」と言い、別の誰かも、(私の説明を正しく理解していない場合は誤りだけれど)そういうことを考えたことがある、と言っていた。そんなことをおそらく考えたことがなかった私はなんだか自分を情けない様に思った。それはあんまり正しくない感覚だけれど。
今日、実習先で知り合った初対面の女の子と立ち寄った古本屋で見つけたミツバチのキスという漫画。すべて思い出した。私が不思議に思っていたこと。どうして私以外の人の頭の中が見えないのか。気づいたのはいつだったか。それまでの私は人の頭の中なんて気にも留めなかったのか、それとも頭の中をみることができたのか。いつしか人の心が読めなくなったぼく地球のブンさん。人の心が聞こえてきて苦しんでいたシャーマンキングのアンナ。逆に自分の心の声が一定の距離の人間に届いてしまうサトラレ。私はいつも気になっていた。わたしじゃないあの人やその人の頭の中にはどんな内容が起こっているのか。どうして頭の中が見えないのに人は何かを言葉で伝えられるのだろうか。そしたら、そしたら愛を語り合う二人はてんでバラバラにとんちんかんなコントをしているんじゃないのか。それがなんだかとても恐ろしかったから、私は好きだとか愛が分からないことにした。好きはきっと感じて分かっていたけど本当に理解できた気がしなかった。何かを本当に理解することなんてできるんだろうか。そしてこのプロセスがこれまでの私だ。
何の説明もなく出てきたこの『実習』は学芸員の資格をとるための課程で、それ自体は私の専門とはまったく関わりがなかったのだけれど、この実習が何らかの形でわたしの思想に何かしらの変化をもたらす予感が強くある。実習は残り一日。


ミッド・ナイト・イン・パリを観てきた。
普段映画の感想なんて書かない私がどうしたのかと言うと、私はあんまり映画を観ないから書きようがないだけで、本当は結構こういうこともしたかった、というなんとも分かりやすい理由。ちなみに前回みたのはGWに宇宙兄弟、その前は去年のブラック・スワンてな具合。
始めのうちの印象は、いわゆる「お洒落でパリに行きたくなる系」の映画なのかなあ、没頭できなさそうだけど、たまにはアリかな、なんて思っていたけど最後まで観たらだいぶ印象が変わった。観てる間もあんまりドキドキ感とかっていうのはなかったんだけど、結末は意外でかつ希望に満ちた終わり方をする。観たあと頑張ろうかなって思えるお話でした。で、たぶん外せないのはコメディ要素。封切りからだいぶたってて200席位の小さいスクリーンに、半分も埋まらない客席だったけれどちょいちょい笑いは起きたし、私も心地よく笑えた。どこがおもしろかったの?と言われると、どれだったっけ、、、?ってくらいあっさりしてたんだけど、気の利いた笑いというのがピンとくる。パンフレットには抱腹絶倒って書いてあったけどそういう種類とは違うと思う。個人的にニヤニヤが止まらなかったのはダリと主人公のギルがお酒を飲むシーン。かわいいけど扱いづらい感じがたまらない、そしてダリ役の人はやっぱかっこいいなって思うのでした。
珍しく購入したパンフレットで言及されていた美女二人は、フィアンセのイネズ役のレイチェルマクダアムスとアドリアナ役のマリオン・コティヤールなんだけど、私が二人挙げるならマリオンとゼルダフィッツジェラルド役のアリソン・ピルかなあ。サルコジの奥さんのカーラ・ブルーニも捨てがたいのだけれど。まあとりあえずマリオンは文句なしの美人。作中でも顔の造詣が完璧って言われてたし、そうだと思う。もうちょっと若いというか可愛らしいキャスティングでもいいんではと思うけど、彼女の顔はとても好き。。それでアリソン・ピルはね、美人というよりかわいい、なんだけど、ゼルダとしての彼女は本当に魅力的だった。ゼルダは壮絶な人生らしく(正直全然知らない)、その締めくくりも「幸せそう」とはあんまり思えないんだけど、それでも彼女の観る景色はどんなにエキサイティングだろう、と思わせてくれるのがアリソン・ピルのゼルダだった。二人に共通するのはどっちも1920年代の人物の役で、昼間には出てこないから、夜の社交場の灯りで、うつくしく着飾って、派手に過ごしている瞬間しか観ていないこと、それに対してイネズは昼間一緒だし、冴えないギルに文句を言ったりするからニコニコしてる場面を多く見れなかったっていうのは大きいんだろうな。いやしかし20年代のドレスのかわいいこと!夜のシーンは主要キャラクター以外ももっとよく見とけばよかったなあ。
映画の感想ってムズカシー。そりゃまあ言葉も音も顔も景色もいろんな要素でできているんだもんなあ。
最後に思うのは、丁度今の朝ドラもそうなんだけど、かなりいい感じの人とかが現れても、最後にくっ付くのはお似合いの二人だなっていう。そうじゃない組み合わせも案外うまくいくかも知れないけど、作中で考えうるベストカップルが決まるのを見てると、私のお似合いの相手は誰なんだろうなってね。
あと創作の中の「ちょっと情けない」男性像っていいなと思う。現実に恋愛の相手なんか特にゴメンだぜ!って思うのに、なんというか、愛でるというより感情移入してしまうのか、映画とかのちょっと情けない男性像が好きです。

素敵な映画でした、ミッド・ナイト・イン・パリ。