わたしにとって少女であるための行為とは、自分の女性性を否定する事だったのかもしれない。少女であるとは無知で無垢として在ることを許される免罪符だ。
ニンフェットの時期に性的な存在と見られるのは実はとても危険なことで、それは身の危険やある種のトラウマにとどまらない。無垢なものへの侵略行為は恐ろしいことだ。どういった侵略行為なのかは分からなくても、侵略されたことだけははっきりと理解できる。それの「意味」とは一体なんだったのだろうか。人間は現象や行為に意味を求める。こどもだって同じだ。思春期だったわたしはいつも戦いの只中だった。そもそも思春期とは戦いだと思うが。いや、今でもいつも戦っている。だとしたら何が一体変わったのだろうか。
近ごろ女性性と抗う少女の関係性が変動を始めた。薄々、もう少女としてのわたしの終わりを感じている。もうわがままは言っていられないのだろう。