また、何をやってもかなしい毎日に戻ってしまいそうだ。今度は抜け出せるかなって思ったのだけれど。ちょっと勉強をして友達とお酒のんでカラオケに行ってお喋りして、結構たのしくやってるはずなのにそれでもやっぱり一人になればかなしい。その感覚が凡庸なことにますます腹がたつ。
わたしはなれなれしくするくせに他人に接近されるのが苦手で、一生懸命考えるのに全体を見たりまとめる力がなくて何にもならないようなことばっかで、わたしには、「結局」なにも手に入れてないような感じがお似合いなんじゃないかって思った。共有したくて仕方ないくせにわかってもらいたくなくて、そんなこと言ってたら誰もわかってくれるはずがない。ほんとうはひとりだけによくよくわかってもらいたい。そのひとりはどこだ。
それにしても勝手に敵ばっか増やすようなわたしの頭の中は、もうちょっとどうにかしないといけないとおもう。なんてくるしい毎日!こんなにしあわせなのに。

わたしにとって少女であるための行為とは、自分の女性性を否定する事だったのかもしれない。少女であるとは無知で無垢として在ることを許される免罪符だ。
ニンフェットの時期に性的な存在と見られるのは実はとても危険なことで、それは身の危険やある種のトラウマにとどまらない。無垢なものへの侵略行為は恐ろしいことだ。どういった侵略行為なのかは分からなくても、侵略されたことだけははっきりと理解できる。それの「意味」とは一体なんだったのだろうか。人間は現象や行為に意味を求める。こどもだって同じだ。思春期だったわたしはいつも戦いの只中だった。そもそも思春期とは戦いだと思うが。いや、今でもいつも戦っている。だとしたら何が一体変わったのだろうか。
近ごろ女性性と抗う少女の関係性が変動を始めた。薄々、もう少女としてのわたしの終わりを感じている。もうわがままは言っていられないのだろう。

今年の桜は

今週のお題「桜」


わたしの家の近くには、川に沿った桜並木がある。桜がうつくしいものだと気がついたのは中学生のころ、家族とご飯を食べた帰りに提灯に照らされたこの桜を見たときだ。とにかくうつくしかった。強いて言うなら千と千尋の神隠しのあの街に似ていてとても幻想的だ。それからは毎年のように春には桜を見に川沿いを歩いた。好きな人と行動をともにするようになってからは立ち止まったり出店で買った温かいものを食べながら桜を眺めた。やはりその時の桜は一層うつくしかったように思える。去年は「震災の影響」で提灯のライトアップはなかったが、それでも満開の桜はうつくしかった。
今年はというと、桜を見ても何も感ずるところがない。満開に咲いた桜を見ても鳥肌が立たない、心が揺さぶられない。何というべきか、うつくしいものをみて何も感じないということそれ自体がたいへん恐ろしい事のように思える。感覚はすっかり鈍ってしまったようだ。今年はあの桜を見に行くのが怖い。
いつでも胸を高鳴らせ小さなことでも涙したくさんのものをいつくしむ心。

二ヶ月もあきました。
携帯をスマホにしてからというもの、以前に増してパソコンを立ち上げる回数が減り、多めの文字数で更新する私はなかなか機会をいっしていました。
四月に入り新学期なので、心機一転活動的に、ダイアリも更新してやっていきたいと思います。

感動的なこと

明日はゼミのレポート提出なんだけど、日記なんか書いちゃって、でもそれとも関係なくはない話。
去年の夏くらいから言語論だとか記号学だとかに関心がわいて、まあでも勉強熱心な方じゃないからたまあああに関連書を読むような感じで過ごしてきて、めろぶれさんにお会いしてベルクソンなにそれ超凄そうって思って図書館で本借りて読めずに返したり買ったりして、いまゼミのレポートのためにジェイムズの入門書読んだら出てくる出てくるベルクソンの名前。どっちの本も途中途中しか読んでないからこんなこと書いたら間違いだらけでアウトかもしれないけど、ざっくり言ったらたぶん二人は言語の限界のことを言ってて(違ったら……まあいいや)、そんでここで出てくるのは哲学科としての私の(つまりこれまでの人生においてともいえる)最も大きな問いの「(恋愛における) 好 き っ て 何 ? 」という問いにものすごい絡んできちゃって、うおああああって思った。実はこないだ表紙買いした

きみはポラリス (新潮文庫)

きみはポラリス (新潮文庫)

(同日にニーチェの解説本とベルクソンの解説書を購入)の裏表紙に「どうして恋に落ちた時、人はそれを恋だと分かるのだろう。…(中略)…人は生まれながらにして恋を恋だと知っている。」ってあって、恋って概念は生得的なのとか思ってみたりして。ロマンチスト過ぎんのかな。最近、まだ凄くライトにだけど恋心っぽいものを抱いたりしていて、そういやこの、こういうタイミングでの好きをまだ私分析してないわって思ったけど、そういうことして意味あるのかしらなんて思い始めちゃった!こないだニーチェの解説書読んでた時もなんだか大いなる正午っぽい思考になってたから、読んでる今だけこんなに影響受けてるのかも知んないけど、でもいまそんな気分。とにかくね、みいんなつながっちゃったの、それに困惑する。関係ないものが何もなくて、ちょっとでも興味があって選んできたもんなんだけど、それがパズルがはまるみたいになって、ああこれのことかってちょっと感動しながら困惑。
閑話休題ってか最後だけど、「好きって何?」っていう疑問は私の周りにも抱く人は案外いて驚きだったんだけど、その人たちと私とでは言葉では同じ「好きって何?」でも、違った意味のことであった。私のは「好きっていうのは感覚的には分かるんだけど、分析して説明するとどんなだろう?」っていうので、その人は「好きってどういうこと?どういう事を意味してんの?」っていう風に思ってて、この二つ違うよね。恐ろしく違うのか、ちょっと違うのかわかんなくなってきたけど。でもここがいっしょくただと議論すんの難しいなってなるようだ。だからなんだっていうと何でもないけど。

はたちになるわたしは

成人式を明日に控えたそんな今日思っていること。
式自体にはほぼ思い入れもないが、とにかく今そわそわが止まらない。一番近いのはセンター試験の前日。あのときと違うのは、翌日によって追いつめられていないことかな。でも明日が来て終わっちゃうのが怖いな。別に成人式に出たからって何も変わらないはずなんだけど。これが通過儀礼の力か。でもきっとちょっとだけ変わっちゃうんだろうな。みんなどんなはたちになったんだろう。


あと成人や式とは関係ない思っていること。とにかくなんだか片っ端から悲しくてさみしくてはずかしくて切なくて情けなくてうごおおおおおおおおおおおおおおおってなる。でも髪伸びたなあとか、ネイルした自分の爪みてにんまりしたり、なんかそういう小さい小さいことでバランス取ってるんだなって、女の子っつうのはもしかするとそういう生き物かも知れないなって思った。
最近は、というか大きな別れの後はほっとんど泣かなくなった。あんなにひっどい泣き虫だったのにな。泣いたらすっきりするんだろうなって思うのに、なんだかかなしくても泣けなくなってしまって、いいのかなあって思う。泣かないことは、もしかしたら前より強くなったということかもしれないけど、でも、わたしはよく泣いていたころの自分のほうがいい、というかすきだったかもしれない。

あとやっぱり愛だの恋だの、ってぜんぜんわたしにはわからない。大体しんどいし、必死な時は痛覚が鈍化するのか、おそらく心は傷ついてるんだけど、それを無視して突っ走れちゃうから、我に帰った時、なんかじぶんぼろぼろじゃね?っていうのよくある。それでも恋をしたいと思っている。でもその恋もたぶん高望みで、理想と現実の隙間に落っこちちゃってる。
終わった恋の話をしたとき、どんな文脈だったかあいまいだけど、それって恋するハードルすごく高くなってない?って言われて、そうかもなー重く考えすぎかもなーとかその時思ったんだけど、でもほんとにそのくらい重く考えるくらい好きにならないと、なにか行動を起こすなんてもう怖くてできないよなあって思う。自分も、相手すらぼろぼろにする覚悟がないともう誰かに好きなんて言えないよなあって思ってしまった。相手を傷つけてしまうかもしれなくても行動せざるを得ないくらい好きにならなきゃ無理だなって、そう思うのだけれど、行動なしにそこまで誰かを好きになることなんてできんのか、とも思う。これはきっと一時の感覚にすぎない、と思う。

今一番つらいのは、ひとりの仲良くしている子への感情。たぶん3つくらいの感情が入り混じって、その子のことを考えると、あの言語化できないぶわーっと襲ってくる感覚で死にそうになる。つらい。これまでみたいに仲良くしてたい。明後日、ふつうにふるまえるかな。彼女と相互に持っているのは、3つのうちの一つの唯一いいもので、それゆえ勝手に抱いている他の二つはその子にはまったく身に覚えのないものだから、そんなんで不自然にふるまうなんて彼女に対して悪い。一番いいのは、なにも考えないこと。


ちょっと前は哲学のことで頭いっぱいだったのに、今は人間関係に頭をもたげています。頭ん中が忙しい2012年のはじまりです。